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2020.6.8.(月)

文房具屋に行こう

可能な限り日々の記録をしたいと思う。でも、多くの人がそうであるように僕もまた、日記が続かない方なのだ。

文章が書けるようになってから今に至るまで、「日記を付けよう、日課にしよう」と心に決めて、実行に移したことは幾度となくある。ノートを買ってくる。まっさらなノート、そう、ちょっと良いノートにしよう、ツバメノートとか。キャンパスとか、よくコンビニとか書店の隅に売っているようなやつは、味気ないしな。折角日記を付けるのだから、上等なノートがいい。そう思ってわざわざ「文房具屋」に出かけ、例えばツバメノートを買ってくるのである。

では早速今夜から書くことにしよう。寝る前に一日を振り返って…朝起きるところから。何時に起きたっけ。ああ、7時半だ。それからトイレに行って、顔を洗ったりなんかして、朝飯。何を食べたっけなー。うーん。とここまで書き起こしてみて、これは一日のすべての行動を記していたらきっと朝までかかると気付くのである。いや、行動のすべてを日記に書くのはやめよう。キリがない。何か印象的な出来事を挙げて、その時自分の気持ちがどう動いたか書く。日記は誰に見せるものでもないのだから、心に感じたこと、思ったことは包み隠さず、無論その源泉になった事実についてもありのままを書かねば意味がない。うむ、誰に見せるものでもないのだから。と、書き書き。いや、待てよ。あった事実と感じたままの気持ちを書いたとして、明日僕が事故死して、遺品整理で日記が見つかって読まれたら…いやいやいや、それは困る。それは恥ずかしい。心の裡を他の人に知られてしまうなんて。後世までの恥。もう僕は死んでる訳だけど。心の秘密は墓まで持って行かねばならぬ。歌うたいがすべからく心の秘密を歌にしているかと言えば、そんなわけはないのだ。作家にしてもそうだろう。あったことをそのまま書いても成立はするしそういうタイプの作家もいるだろうが、嘘を書いたから人に感銘を与えられないなどということはない。歌にしても同じだろう。フィクションであっても構わないし、「あ、この人は何か心に秘密を持っているんだな」と感じさせることそのものが、ある種表現として…(匂わせってこういうこと?)…隠しても漏れてしまうからリアリティーが…云々。

こうして日記は3日を待たずして、閉じられるのである。買ったばかりのツバメノート、もうその封印が解かれることはない…

後になって考えてみれば、こんな日記が続くとは到底思えないのだが「また日記を書こう。今度こそは」と性懲りもなく思い付くに至って、そんなことは完全に忘れ、また同じ行動を繰り返すのであった。「よし、まずは文房具屋に行こう」と。もはや「日記挫折日記」である。それが「日記挫折日記挫折日記」になるのは目に見えて明らかなのである。今書いているこれは、さしずめ「日記挫折日記挫折日記挫折日記……」

だがしかし、ペンと紙を使って現実の日記を書かなくても、記憶におけるログはしばらく残っている。しばらくどころか記憶の奥底には、生まれてこのかたのログがずーっとあるに違いない。歌や文章の源泉はここにある、ここ以外にはない。だから日記を付けなくても歌はできる。しかし大分気まぐれになる。要するに日記を付けるという行為は、忘備録としての役割の他に、創作のためのネタを記録して蓄積させるとか、アウトプットの訓練だとか、そういう意味合いもある。これをルーティンにすることによって、創作を持続的な、日常的なものにしたいという、いやらしい狙いがあるのである。そうしなければならぬほど、僕は自堕落な人間なのだ。

集中力に関する本を読む。「集中力などというものは、存在しない」と書いてある。そう。これはルーティンの組み合わせから生まれる、ひとつのシステムなのだと。ははあ。わかるよ。もうとっくに気付いている。気付けるくらいには挫折を繰り返してきたからね。あの集中力がないことでも有名なレオナルド・ダ・ヴィンチも、きっと自分ではわかっていただろう。

こうしてここに書いているこれも、まぁ一つの日記だろうし、今まで闇に葬り去られ成仏できないでいる日記たちの供養のようなもの。こういうものでも書いて記録に残しておけば、未来の僕はきっと微笑ましくこれを読み返せるだろう…こんな風に思ったこともあったなと。うすーく積み重なるデジャブと共に。

そうやってまた僕はしばらくすると、ある日ふと思うのだ。「文房具屋に行こう」と。

 

 

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