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2018.4.27.(金)

雑記4

二十歳前後のころ愛読していたアルベール・カミュが何かの本で「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。 自殺ということだ。 人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである」と言っていた。自殺について、は哲学者ショーペンハウアーも本を書いている。やはり哲学上の根本問題なのだろう。自殺をする人は日本だけで毎年3万人を超えるという。日本だけで、と言ったが、おそらく日本が異常なのであって、他の国でこれだけ自殺者があるような話を聞かない。戦力の保持を放棄し戦争をしない国になったはずの戦後日本だが、毎年3万人自殺者を出すなんてまるで何かの戦争だ。

おおよそ自殺と言うのは奥が深いどころか、人間存在の根源的問いから発生する事柄なのだと僕も思う。人間以外で自ら死を選ぶ動物はほとんどいない、崖からネズミが飛び降りて死ぬとか不思議な現象を聞かぬでもないが、死を選ぶ理由が人間と根本的に違う気もする。大抵の場合、自殺をする人は死にたくてそうする訳ではないと思う。生きるのが辛すぎて死を選ぶのだ。死ぬ理由は生きる理由をなくしてしまったからということなのだ。実は僕にも身に覚えがある。生きるのが辛すぎて、自殺しようと思って縄をどこかで買ってきた。自分に生きる価値が、存在する価値があるようにはまったく思えなかったのである。だけど結果決行できなかったのは今こうしてキーボードを叩いていることからも明らかである。鬱病の人に聞いてみたら、「生きるのが辛すぎて死にたい」という状況は本当に危機的な状況の前の段階らしい。本当に危ないのは「ちょっとコンビニ行こっかな」くらいの軽い気持ちで「死のうかな」って思ってしまう状況なんだという。___その後何年かして偶然にも僕はちょっとした臨死体験をし、どうやら死ぬということがどういうことかわかってしまったのだが、死ぬということが言うほど価値があることでもないと知って、今はやっぱり生きることにしているのである。死に対する恐れ、はたまた畏れも生者だけのものだ。死後の世界は僕個人の体験に照らし合わせると存在を否定せざるを得ないし、別に興味がない。

最近僕の知っている人が自殺した。それを知ったのは死から1か月後だった。僕と彼はそこまで仲が良かった訳でもないし、頻繁に連絡を取り合っていた訳でもない。しかし、事実を知るまでは僕は彼が生きていると思っていたし、知った後もそれを信じるだけの実感に欠けている。大好きな恋人に会えなくなるということは、彼彼女が死んだのと同じことだと誰かが言っていたけど、同様にすでにこの世にいないのに彼の死を知らなければ生きているのと同じことだと感じる。彼の存在が忘れ去られた時が、彼の本当の死なのだろう。ジョンレノンだってジミヘンだって尾崎だってまだ人々の心の中に生きている。僕はその知人の彼の死そのもの以上に、その周囲の人間のあり方に何かジリジリしたものを感じ、少し心が荒れた。ちょっと寂しかないかい?と。まあ彼らも認めたくないんだろう。誰かが自ら命を絶った後も世界は何事もなかったかのように回り続ける当たり前のことに対しても、心が虚ろになってしばらくライブで歌っていても気持ちが恐ろしく醒めていた。

インディアンって、仲間や家族が死んでも「この世の苦しみから解放されたのだから、悲しむことはない」っていう考え方をするらしい。そうできたらいいんだろうけど。仏教でもそもそも苦しみは生まれてきたこと自体に端を発しているものなのだし、生まれなければ苦痛も存在しないという考えから、死を涅槃と呼ぶ。苦しみから解放され安らかな世界に行けるのだから、喜んで送ってやろうと。

そうできたらいいんだろうけどね。

 

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