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2019.2.14.(木)

雑記55

★音楽が自分を色んな人に会わせてくれ、色んな場所に連れて行ってくれ、世界を切り開いてくれた。音楽が持つ力をポジティブに信じても良いんだと思う。音楽が世界を変えたことは、今まで一度もなかった。だけど自分を変えてくれたし、それは世界が変わったのと同じこと。

★「P.I.Lとコルトレーンがセッションしているテープがどこかにあるらしい!」と昔知人が興奮気味に語っていたのを思い出す。んなわけないんだよね。コルトレーン、1967年だかに死んでるんだから。ジョン・ライドンこの時11歳。でも、ジョン・コルトレーンがジャズにおいてやったことと、ジョン・ライドンがパンク/ロックにおいてやったことって、似てるんだ。活動の時期がクロスしていたら、もしかしたら共演していたかも知れない。知人をしてそう思わせる何かがきっとあった、という個人的には温まる話。

★自分がいかに凄いかを吹聴して回る人、自分の手柄を必要以上に強調する人。見ていて恥ずかしい。

★言葉は嘘をつく。大体行動しか見てない。人の振り見て我が振り直せ。

★言葉って言うか、大体悪さをしているのは「脳」らしい。

★詩人に限って言えば極端な話、普段の行動がいかにひどくても言葉さえ良ければいい。尾崎放哉、石川啄木、萩原朔太郎エトセトラエトセトラ詩人のクズッぷりよ。だけどその言葉は世界を凍りつかせる。あのような凄い詩人を見ていると、凄い詩人であることの条件がクズであることという気すら起こってくる。まあミュージシャンも別にそれでいいんだけど、バンドなんかメンバーが何人かいるともうその中で社会性が問われるようなことになる。あとビジネスとして捉えると、どうしてもクズじゃ務まらないということになる。音楽も良くて人柄もいい、、、何も言うことはない。でもいくら人間が良くても音楽がダメじゃ仕方ない。音楽が自分の世界を拡げてくれた。音楽ありきで物事を進める。それで問題なし。

★野蛮な光、未だ消えず。荒野の咆哮、未だ去らず。

★カラオケ会をする。昔はカラオケ大嫌いだった。歌は下手だし、バイト先の忘年会とかで行くとみんな酔っぱらってるし、聴きたくもない酔っぱらいの歌を聴くのは耐え難かった。けど、今はカラオケ好き。誰かと行くのも好き。どんな歌であろうとも、その人が好きで歌うものを聴くのも楽しい。まあカラオケだし。楽しけりゃそれでいい。ただし、自分に関しては酒なしでひたすら歌い続けるのが好きだ。独りなら3時間、2人なら4時間、数人で行くなら5時間から8時時間くらいひたすら歌うのがよい。恥ずかしいとか上手く歌えないとかそんなんいいから、ひたすら歌に入り込んで歌う。それがいい。それが楽しい。

★演劇方面の方とカラオケ行ったんですが、とても上手で。演劇の人ってダンスとか舞踊やったり歌やったり、色々凄いな。やっぱり身体で表現しうるものをスキルとして身に付けておくと、舞台にも生きてくるんだろうし。これが脚本書きになると言葉の世界も知らなきゃいけないし。本読んだりしてものを知らなければどうしようもない。音楽、芝居、映画、ある種の総合性の上にあるんだね。音楽だけにしか目がいかないミュージシャンの音楽って、つまんないだろうね。他の分野も同じだろう。

★こんだけカラオケ文化が定着しているのを見るに、日本人って本当に歌うのが好きなんだなと思う。他の国の人はどうなんだろう。でも今では「KARAOKE」で他の国でも通じるからな。

★場末のカラオケスナックから漏れ聞こえてくるおじさんとかおばさんの歌声。あの異次元な感じがすごい。日本中どこのカラオケスナックから漏れ聞こえてくる歌声も、みな同じに聞こえるのだ。同一人物が歌ってるんじゃないかと疑うくらいに感じが同じだ。自分がどこにいるのかわからなくなる。何とも言えない気持ちになる。最近カラオケスナックに興味あり。

★朗読ライブ『どくどく』の告知が解禁。言葉って、どの分野の人も使う。人間なら大体使う。使うどころか言葉は存在そのものである。生まれた環境や育った境遇によって、持っている言葉が違う。詩人は詩人の、漁師は漁師の言葉を持っている。違っても分かり合える。分かり合えないこともある。僕は言葉を信じているけど、信じていなかったりもする。言葉は人間存在そのものだけど、人間は動物でもある。そんな色んな人が分野を超えて同じステージに立つ『どくどく』は本当に面白い。

★近所の犬が、日がな一日悲しげに鳴いている。犬は認識の世界には生きていないらしいが、感情はあるのだ。やはり何かが悲しいみたいなのだ。あいつが楽しいと思えることをしたら、あんなに悲しげに鳴かずに済むようになるだろうか。

★某大臣の失言問題に寄せて。自分の言葉が人にどのように影響を与えるかの自覚がなさ過ぎ、単純に言って頭が悪い。政治家ってこんなんばっかかな。またそれを発言の一部だけあげつらって言葉狩りのように騒ぎ立てるマスコミや世間。醜悪の極み。僕が言われた本人なら「全員一回黙れ」って思うかも。

★某日某所にて、ライブ観戦。出てきたバンド「ボーカルが病欠なので残りのメンバーでやります」とライブを始める。その心意気やよし。音もそういう気合いの入った音してて、カッコよかったし、スカッとした。一方、MCで言い訳ばかりのバンドも。「いやー仕事が大変で、あんまり練習できてないけど…」「細々と活動してて…」そんなバンドのライブ、誰が見たいんだよ。仕事なんてみんなそれぞれ大変だよ。演奏もダサかった。ダサ過ぎて途中から逆に面白くなってきてしまった。けど、当然2回目は観たくない。金と時間の無駄。

★「一所懸命」って言うのを知らず知らずのうちに免罪符にしてしまいがち。「一所懸命」なら何でも許されるって、そんなわけない。努力っていうのはちゃんと結果を出せるように考えてなされなきゃ意味がない。「一所懸命なフリ」も「徒労」も極論言えば悪。例えば今の数々の日本の会社の問題を見聞きするとわかりやすい。努力評価のなされ方が間違っている。企業のトップが努力の質というものを正しく評価できず、生産性も上がらず、従業員に徒労を強いている。要領の良い奴は、努力しているフリをしてちゃっかり評価も得る。人も死ぬ訳である。だから、「一所懸命であればいい」ってのはもはや時代錯誤の短絡的な考え方だとしか思えない。思考停止している。

★夜を駆ける。想いはどこへ。

 

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