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2018.4.25.(水)

雑記2

これが小説だったら、書き出しは最も重要な要素の一つだが、雑記なので重要な書き出しというものは特にない。雑記と言えばだが最近、日記を書くようになった。3年ダイアリーというやつで、1ページが3段に区切られていて、横のページに横のページにと書いていく。つまり、今日であれば3年分の4月24日の日記が1ページのうちに見られるということである。2018年つまり今年から始めたから、一番上段の部分しかまだ書けていない。日記というものにチャレンジしたのは、これが初めてではない。もう過去に何回も何回も日記を書こうとして、三日坊主かせいぜい一週間坊主に終わっているのだ。今回は何と一ヶ月以上続いている。なぜ今回に限りこんなに続いているのかは色々な理由があるだろうが、一つにはその三年ダイアリーがなかなか高価だったことが挙げられる。洋本みたいな背表紙で、なかなかの装丁。文房具屋の店頭で見つけ、たまたま付け忘れたのか値札がなかったが、レジに持っていったら2800円もした。内心ひどく後悔した。しかし、高価なものだから書かなければいけないという気持ちになったのもまた確かである。

考えられるもう一つの理由として、書く分量が少なくて済んでいるということ。前述の通り1ページを3部分に区切っているため、1日分として書けるスペースが限られている。だからサラサラと5分くらいで書けるし、何ならもうちょっと書きたいことあるのにスペースが足りないなあと思うくらいである。が、これくらいでいい。これくらいでも書くことがない、書く気にならない日だってある。そういう時は、一行でもいいから書く。今日の飯は、天気はこうでしたくらいでいいから書くことが必要だ。内容よりも習慣化することである。

そもそも人はなぜ日記なんか書こうと思うのだろうか。記録?ストレス解消?定かではないが、人はやはり自分の物語を何かに記しておきたいのではないだろうか。誰でもいいが、偉大な文学者が残した日記、例えば永井荷風の『断腸亭日乗』だとか正岡子規『仰臥漫録』だとかドストエフスキーのうんちゃらかんちゃらとか、日記なのに後世にまで伝わっているようなものがある。日記が続かない人というのは、内心どこかで後世にまで残るかも知れないから立派な文章を書かなければ…などと思っているのではないか。構成とか、言い回しとか。それこそ書き出しはインパクトがなければいけない!とか安倍公房ばりのレトリックを考えなければ!とか余計なことばかり考えて、書き出すことすらできず、何とか三日やってみたものの嫌になって終わるのである。その日食べた物や天気などの記録にとどまらず、歴史的な日記というのは文明人の自我の覚醒のレポートに他ならぬ。しかし自我の覚醒も「めんどくさい」には勝てない。

めんどくさくない程度にするのが長続きの秘訣、というわけだろうか。この文章もそろそろ終わった方がいいような気がしてきた。

 

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