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2018.4.26.(木)

雑記3

例えば道を歩いていても、車を運転していても、または電車に乗っていても、見える風景に飽きたことがない。これだけは不思議なことなんだが、何を見ても楽しめるらしいのである。街を歩いて道行く人の表情や服装、歩き方を見るでもいいし、住宅街に入っても庭の木やトタン屋根の錆び具合や窓ガラスの模様___などを見るだけでもいい。5年前まで東京に住んでいたが、東京は散歩するにはとてもいい街だ。当時住んでいた新宿区の外れから、中野の方に歩く、新宿の方に歩く、池袋の方に歩く。または電車に乗って隅田川の向こうまで行き適当な駅で降りて、あたりを散歩する。有名な散策エリアで谷根千(谷中・根津・千駄木)などというのがある。歩きながら江戸の名残を探す。ライブでちょこちょこ東京に行くが、ライブ抜きで散歩をするためだけに1週間くらい滞在したいくらいだ。最近は大阪やその他の街でライブすることもあるが、散歩したい欲にいつも駆られてしまう。ライブ前だし疲れるからほどほどにはしているけど。

僕は三国町在住だが、夕食の後にうちの近所を散歩することがある。三国は古い港町で、港界隈は京都の町屋風の古民家も多く、風情がある。鉄道が主要な交通手段になって水運が廃れ、したがって三国という街も活気がなくなっていったそうだ。それこそ江戸~明治くらいまでは大変な賑わいで、うちの近くに遊郭まであったというし、遊郭出身の歌人も生まれた。絢爛たる文化が花開いたわけだ。とにかく今は静かな三国の夜の風景だが、散歩するのはとてもいい。お決まりのコースにとても人懐っこい猫がいて、この猫に会うのが楽しみの一つになっている。高校生までこの町で過ごした時には見過ごしていたものが、福井に帰ってきて新鮮な目で見られるようになった気がする。ずっと住み続けていたらきっと気にも留めなかっただろう。

三国は基本的には昔と変わっていない。新しいスーパーができたり、駅舎が新しくなったり、そういうことはあるけど。高校生のころ、深夜眠れずに街を歩いた。終電後の線路を港の駅の方までスタンドバイミーしたり、駅前の神社の境内で煙草を吸ったりした。最近も夜散歩したりするけど、変わってないのは町の方だろうか、僕の方だろうか。時間というものがよくわからない。先日濱ちゃんと喋っていて、「時間というものは存在しないのじゃないか」という話になった。あるのは物の移動だけなんじゃないかと。実際そうかも知れないな。人間には記憶がある。暦というものも発明した。僕が線路でスタンドバイミーしていたあの頃から、時間が経ったと思い込んでいるだけなのかも知れない。

あの頃は何を考えていただろうか。そんなに変わっていないかも知れないが、住宅街のトタン屋根の錆び具合や窓の模様のことを考えたことはあまりなかったような気がする。やっぱり、僕は時間から逃れられそうにない。逃れる気もないのかも知れない。一度、家の前で野生のキツネを見た。こんなところにまで現れるのかと驚いたが、野生の動物に遭遇すると、神聖な気持ちになる。彼らは時間から解放されている。認識の世界、記憶の世界の住人でもない。あるのはただ圧倒的な今だけである。生きることは食べ物を探すことと同義である。

人間だけが今を生きられない。トタン屋根の錆び具合が気になるのだ。

 

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