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2018.4.29.(日)

雑記5

小学生のころ、性格診断みたいなテストがクラス全員を対象に行われたことがあった。高学年の時だったと思う。色々な質問がそこにはあって、はいかいいえか、はたまた〇か✕か…どういうふうに答えたのかは忘れたし、質問の内容など微塵も覚えていないけど、とにかく色んな質問に答えた。その結果、この子はどういう性格で、どういう問題点があって、どういう分野に向いているとか、そういうデータめいたものが出てくる訳である。

で、結果の細かい部分は覚えてないけど、貰った紙に「協調性がない…人と協力して何かをやることができません」と書いてあったのは鮮明に覚えている。この時に僕は初めて「協調性」という言葉を知った。このワードだけ、やたら強烈に記憶に残っているのだ。しかも点数も限りなく低いときた。子供心に、僕はそんなことないと思った。クラスの授業や学校の行事の時、僕は誰かと何かをやるのに自分が協力的でないと感じたことはなかったのだ。そんなこと言ったら、僕の他にクラスにやんちゃな奴は何人もいたし、クラスの班で何かをしようとすると決まってひねくれて非協力的になるのを知っていた。でも彼らの結果には「協調性がない」などと書かれてはいなかったのだ。

そういった事実を不思議に思いながらも、なぜだか僕は「協調性がない」という診断結果を内心誇りに思っていた。「あなたは人と違うのよ」と言われているようで、特別扱いされているようで嬉しかったのかも知れない。自分のことながら思い返してみると、自我に目覚めたのは相当早かったのではないかという気がする。2歳の終わりくらいからおぼろげに記憶があるが、3歳か4歳の時には「この肩から下がっている手、その下の足は何だろう?」「この手足は一体何故動くのだろう」「もしかしてこの手足を動かしているのは自分なのかな」「自分の身体を操縦しているのは自分だとして、他の人は誰が操縦しているのかな」「もしかして自分以外はすべてロボットだろうか」などと、おおよそこういったことを考えていた。こんなことを3歳くらいの子が考えるものだろうか。

人間誰しも自分が特別だと信じたい。自分には何か特別な能力があり、特別な使命があり、他人とは違う特別な人生を送っているのだと。

だがしかし、大人になるにつれて自分が何ら特別な存在ではないと知っていく。顔だって能力だって他の人と大差ない。それどころか自分は他人に劣っている、遅れているという強烈な劣等感が頭をもたげてくる。僕は特別な存在ではなかった。未来は無限であり、自分は何にでもなれると思っていた。しかし、わかってきたのは、あれも無理、これも出来ない、無限の可能性などない、輝ける未来などどこにもないという冷たい事実。自分だけでなく、世のすべての人間に感じる虚無感。自分も劣っているが、仮にちょっと成功しているからといって何だというのだ?いくら成功して金持ちになって高級車を乗り回して女を侍らせようが、どっちにしたってみんな死ぬ。すべては無駄だ。なぜ俺は生きている。なぜみんな生きてヘラヘラ笑っている?強烈なニヒリズムが僕を支配していく。

結局幸いなことに僕はニヒリズムに犯され切ることなく、生き長らえて今日にいたるわけであるが、「自分が何者でもなく、ほとんど何も知らず、ほとんど何もできない」ということに気付いてからが本当の人生の始まりだと近年感じている。あれもこれもできない…ならば自分に出来ることは何だろう?本当に自分がやりたいことは何だろう?自分探しなんてガキが陥るダッセー行為だと思ってた。だけど、みんな自分を探している。僕も未だに僕を探している。知っているようでまだまだ知らない自分。

協調性がない、とはやっぱり思えないんだけどなあ。

 

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