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2018.5.2.(水)

雑記6

雨の日が嫌いではない。確かに出先で突然降り出して傘を持っていなかったとか、ズボンの裾が濡れて靴下にまで雨水が浸水してくるとか、面倒臭いことは面倒臭い。だが雨を嫌いと思ったことはあまり無いと思う。雨の日に家の中にいて、雨が屋根や窓を打つ音を聞いて過ごすのは好きだ。あの「ザーッ」という音を聞いているとなぜか安心する。誰かが「あれは母親の胎内にいる時に聞いていた血流の音に似ているから落ち着くんだ」と言っていた気がする。誰だかは忘れた。本で読んだのかも知れないし、知人がトリビアを披露した場に居合わせたのかも知れない。

東京の冬はあまり雨が降らなかった。ほぼ毎日青空が広がっていたし、過ごしやすかった。空気は乾燥しており、独特の乾いた寒さがあった。地方出身者にとって、さらには雨が多い北陸地方出身者にとっては特に、冬の東京の空はある種異様に思えることもあった。冬の間日本海側は毎日のように絶え間なく雨や雪が降り続くが、ここではまったく知らぬ顔の青空だ。それはまるで、地球の裏側の銃弾が飛び交う街のことなど知りもしない日本人のような風情にも似ていた。僕もまた故郷のことなど忘れて、傘も持たずに一冬あちこちに散歩に出かけた。出かけるのにはありがたいことこの上ない東京の冬の青空は、何故だか不思議な切なさを持っていた。過去東京に住んだ何千万人、何億人の人たちは皆東京の冬の青空をありがたがっただろうか。彼らのほとんどは亡くなっているか、東京を出て別の場所に住んでいるだろう。彼らは今どんな空の下に生きているのか。東京の空を思い出すことはあるのだろうか。

今住んでいるところは本当によく雨が降る。北陸地方の冬を、ロンドンに例えた者がいた。「常に雨がしとしと降っている」と言う。誰だかは忘れた。また誰だかがトリビアを披露しようとして失敗しただけなのかも知れない。実際は「しとしと」などとは表現できない強い風を伴った雨だからだ。僕は海辺の町に住んでいる。荒れ狂う海からの風が、家を揺らし、窓を叩き続ける。

Twitterなんかを見てると、「雨が嫌いだ」と発言する人がたくさんいる。僕は雨が嫌いではない。「雨が嫌いだ」と言ったところでどうにもならないし、きっと雨も彼らが嫌いだろう。「雨が嫌いだ」というのも詩的な表現にはなり得るが、僕は雨が嫌いではない。雨はそこに住む人たち皆の頭上に降り注ぐ。それは無慈悲なように見えて、これ以上なく慈悲深くもある。それは生のようでもあり死のようでもある。誰かにとっては喜びだが、別の誰かにとっては涙の雨だ。全体で見れば大した違いはないが、それでもやっぱり雨の日のどこかの家の夕餉の窓はこれ以上なく温かく見える。雨に濡れたお父さんが「参った参った」と言って家に駆け込んできて、お母さんがタオルを手渡しながら「今夜はシチューよ。その前にお風呂が沸いているわよ」とでも言っているかも知れない。また、僕が夕暮れの雨の中、車で家に帰ろうとする時、駅前のロータリーの街灯の下でただただ雨に打たれ続けている男の姿を発見しないでもない。

そんな安っぽいドラマのような家庭にも、駅前ロータリーの街灯の足下に立ちつくす男の絶望の頭上にも、雨は同じように降る。

僕は雨が嫌いではない。今日も明日も、街は雨の予報だ。

 

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